これまでの経歴
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私がお菓子の道に進もうと決意するまでの経緯を書いていきます。
食品スーパー 青果部門時代
大学を卒業し、食品スーパーに入社しました。そこでは青果部門で働いていました。
昔から「食」に興味があり、その中でも色とりどりで美しく、旬が楽しめる野菜・果物を扱える部門で働きたいな!と思い、希望部署だった青果部門で働くことになりました。
当時は女性陣にはベーカリーや惣菜、レジ部門が人気で、青果部門には同期で私含めて3人のみ!その他は男性でした。
その理由は、重いものが多いからです。。。
毎日朝と昼に市場からの荷物を下ろすのですが、大体朝は20台、昼は5,6台くらいで、自分の身長よりも高く、ぎっちりと積み込まれた荷物を下ろします。
初めのうちは、先輩と一緒にやっていましたが、業務に慣れると社員1人出勤の日もよくあり、これを1人で下さなければなりません。
なんといってもバナナが重い…!!!
1ケース40kgもあるんです。。。
とても持ち上げられる重さではなく、地面に叩きつけるように下ろしていました。笑(硬いケースと段ボールに入ってるから潰れたりはしません。けどごめんなさい。余談ですが、このダンボールも硬くて開けるの大変でした。。。)
今考えるとよく頑張っていたなあと思うのですが、当時はそんな作業も楽しく、ヒーヒー言いながらあくせく働いておりました!
そんな重労働なスーパーのお仕事ですが、持ち前の好奇心が爆発し、野菜と果物の知識を深めるために食べたことのないものを見つけた時は購入して食べてみたり、独学で勉強して野菜ソムリエの資格を取ったりしていました。
よくお客様から質問される、良い野菜の見分け方や旬の時期について、見やすくまとめた一覧表を作業室に貼って、パートさんやアルバイトの方々が答えられるようにしてみたり、手書きポップを書いてその野菜や果物の良さやおすすめの食べ方を紹介してみたり、そういった作業がとても楽しかったです。
絵を描くことが好きだっったので、研修で自作POPが評価されて皆に発表されたりしていました。
しかし、実際の現場で求められていたのはその部分ではなく、なんといっても売上!利益!効率!
世知辛いですが、そりゃあそうですよね〜。
実は青果部門って食品スーパーの花形部署なんです。売り場に入って一番に目が入って、そこから今日の献立は何にしようか決めるお客様が多いとか。また、単価が安く広告の特売品が多いことから、たくさんの数を売ってお店の売上を稼ぐ部門です。
好奇心旺盛で嫌いなことにも興味を持てる方ですが、数字の話だけは別・・・学生時代成績は良い方でしたが、数学だけはいつも50点いかず。。。笑
とはいえ先輩方に教えてもらいながら、月の売上高を更新したりしてそれなりに成果は出せていたのかなあと思います。
仕事内容は好きだったのですが、やっぱり土日も出勤、残業代は出ない、年末年始も出勤、朝6時にお店に行って帰るのは21時。その日は社員は私だけ。という状況で、キャパオーバーな日々が続き、今後ずっと働き続けるのは厳しいかなあという思いが徐々に徐々にむくむくと湧いてきました。
ちょっと気取った書き方をしてしまいましたが、本音は、土日連続で休みたいし、有給取りたい。あとリモートで働きたい!荷卸したくない!と思ったのです。
そこで私が考えたのは、Webエンジニアになることでした。
一人でコツコツ作業するのが得意だし、勉強は好きだから向いているんじゃないかなと期待していたんです。
Webエンジニア時代 1社目
SES 初めての現場
当時はまだプログラミングスクールもなく、これからはプログラミングが来るぞ!ITが来るぞ!と言われていた時代でした。
パソコン1台あれば、どこでも働ける
そんな働き方に憧れたのも、Webエンジニアになることを決めた理由の一つです。
あと、私は英語が好きだったんです。なので、英語と何かスキルを組み合わせられる仕事ができたらな!エンジニアになれたら、海外からも仕事受けたりして自由度が広がるな、楽しそうだな〜!とワクワクしていました。
なので、プログラミングが好きとかPCが得意とかそういう訳ではなく、英語を使って勉強しながらスキルを積める!英語ができるようになりたいから、Webエンジニアになろう。というよくわからない考えで、ITの世界に足を踏み入れてしまったのでした。まあこれを話しても誰からも共感得られたことないんですが…笑、当時の私にとっては真剣に考えた結果でした。
好きなだけでTOEICも560点くらいで、読むのはできても話したり書いたりすることはあまり得意とはいえない。そんなコンプレックスもあり3ヶ月で話せるようになるという短期塾に通ったりして、前よりは話せるようにはなったのですが、悲しいかな、結局エンジニアの仕事で英語を話すを使うことはなかったです。笑
プログラミング言語の公式ドキュメントやエラーメッセージ、海外ツールの問い合わせなどは英語なので読み書きでは使うことは多く、それは楽しかったです。
話がそれましたが、私はエンジニアとして2社経験しています。この章では1社目について書いていきます。
1社に入る前には、HTMLやCSSの本を買って、自分でホームページを作ってみたり、「ドットインストール」というプログラミングの無料でネットに公開されているものを見ながら試してみたりしながら基礎の基礎から勉強しました。ありがたいことに、面接でその話をしたら採用していただけました。
SESという、業務委託で働く形態の会社でした。
構造上、下請けが何個も連なっていて下請けになればなるほど給与が低く、業務時間も長いブラックな業態という、あまり良くないネット上の噂も知っていましたが、スーパーよりブラックなことはないだろう、という謎の自信がありました。笑
だって土日祝休み、夏季休暇・年末年始休みです!
しかも体も動かさない!
当時の私にとっては全く問題なく、むしろ良い条件でした。
それに、未経験で実績さえ積めばいくらでも転職できると思っていたので一生懸命頑張っていました。
エンジニアと一口に言っても、たくさんの分野があります。
フロントエンドエンジニア:ユーザが触るボタンとか見た目の部分を作る人
バックエンドエンジニア:裏側のボタンを押した後の処理などを作る人(例えば決済や予約の登録など)
モバイルエンジニア:スマホのアプリを作る人
インフラエンジニア:システムが動く環境を作ったり、管理する人
などなど。。。
私はその中のバックエンドエンジニアをやることになりました。(少しフロントエンドもやらせてもらえました。)
最初に使った言語はPHP、HTML、CSSで、携帯会社の工事関連の方々が使うシステムの保守・運用をメインにやっていました。最初のうちは保守がメインなので、どちらかというとインフラエンジニアになるのかな。
40個のシステムが正常に動いているか、3人体制でチェックしていました。
途中からは新機能開発や不具合修正などもやらせてもらったりして充実した日々を過ごしていました。
この現場で初めてLinuxに触りました。よくハッカーとかのドラマで出てくる、真っ黒い画面で白い文字を打つあれです。
カッコいい〜。とテンション上がりながら仕事してました。
コマンドという、一つの単語のようなものを組み合わせてコンソール画面(前述した真っ黒い画面)に打ち込むと、処理を動かせるものがあるのですが、数文字の単語だけなのに意外と複雑なことができたり、実はパソコンの画面でクリックしてやっていたことが、このコマンドを打つとできる、とか、そのシンプルで便利な部分に驚き、とてもワクワクしました。
Linuxコマンドにハマって、その資格を取ったり、日々の作業をプログラムにやらせるために、シェルスクリプトというものを書いてバッチを動かしたり、そういう作業がとても楽しかったです。
1社目の現場は保守がメインだったのでとても暇でしたが、IT業界が初めての私にとっては勉強になることが多く、そこで働く方々も良い人ばかりだったので、幸せな毎日でした。
最終的には基本設計や要件定義まで任せてもらえました。新機能開発でも、私がリリースしたものだけは一つもバグがなかったと褒めていただいて、とても嬉しかったです。常駐先の社員の方からうちの会社で働かないかとオファーもいただいたり。結構自分に向いていたのかなと今思うと思います。
しかし、好奇心旺盛な私は物足りなくなってきて、このまま実装経験がないままで良いのだろうかという不安もあり、もっと上を目指したくなったんです。
あまりガツガツと開発を行うという訳ではなかったので、もっと自分でコードをバリバリ書けるスキルを身につけたいなと思って、Javaの現場に移動しました。会社の人からもJavaをやっておけば他の現場にも入りやすくなると聞いたので、やったことないけど頑張ってみよう!と決断しました。
2つ目の常駐先では、銀行員の方が融資関連で使うシステムの開発を行うことになりました。
SES 2つ目の現場
ここでは詳細設計から開発・テストまで担当しました。銀行というだけあって、セキュリティ万全。
携帯は室内で使用禁止、ネットも専用の別の部屋のPCからしか使えません。
Javaが初めてだったので事前に基礎は本で学習したものの、調べないとわからないことだらけでした。
しかも、同じ会社の社員が一人もいない状況で、周りの別会社の人に質問しながら無理やり進めていました。
この案件はなかなかの炎上プロジェクトで、後半になってくると22:00までが通常運転になっているほどでしたが、同じチームのメンバーでよく飲みに行ったりしたので、それはとても楽しかったです。
忍耐力がピカイチな私。時間的な拘束はあまり苦にはなりませんでした。
ありがたいことに人間関係にも恵まれて、あまり実装はできない状況ながらも担当させてもらえ、良い経験になりました。
銀行や融資関連の業界用語も勉強させてもらいながらで、仕様の理解もなかなか大変でした。
大きなプロジェクトで全体で50人以上はいるプロジェクトですが、そのプロジェクトリーダーの方からは仕様の漏れや誤りを指摘してくれるのがありがたいから残って欲しいと言われていたとお話をお聞きしました。同じチームのリーダーの方からも、うちの会社に来たくなったらいつでも電話して!いつでも席用意するから。とありがたいお言葉をいただき、飲み会の席では、私は実装向きではなく絶対仕様調整とかそっちの方が向いているよ!!と言われたのを覚えています。
実際にオファーされてはいないので、建前だった説が濃厚ですが、嬉しい言葉はしっかり受け取って、調子に乗っておこう。と、今でもこうして覚えているのでした。笑
そして実装向きではなく仕様調整が向いているとこの現場で言われたにも関わらず、私はもっといろんな開発できるようになりたーい!と思ったんですね。
なんといっても、パソコン1台あれば、どこでも働ける状況になるのを夢見て入った業界でしたから、自分でできることが増えれば、自由度高く働けるようになる可能性も上がるのでは。と期待しての考えでした。
あと、当時品川で働いていたんですが、品川駅を出てから会社に向かうまでの通路が、本当にディズニーランドかな?ってレベルで、ずーーーっと、混雑したままスーツ姿のサラリーマンがゾロゾロと歩いていくんです。霊感とかある訳じゃないんですが、負のオーラみたいなものがすごくて、もうここ行きたくない!って思ったんですよね。
後から知ったんですが、バンクシーがそこの写真を撮って「Gaman」というタイトルで短編映画のようなものを作っており、誰一人笑っておらず、みんなマスクで同じような服を着て、ゾロゾロと歩いている日本人の姿を風刺したもの、と聞いて、その映像を見た時ゾッとして、あの時の嫌〜な感覚はこれだったのか。と気がつきました。この会社で働いている2年後、コーチングを受けることになるのですが、その先生曰く、我慢って日本人特有の考えらしく、海外から見ると不思議らしいです。
あともう一つ転職しようと考えた理由がありました。
別会社で常駐しているだけなのに、元請けの会社の方から派遣さんって呼ばれることが嫌だったことです。
全員がそうだったわけではないし、大した事ない話ですが、私にとっては地味に心が擦り切れる体験で、「私にはちゃんとした名前があるんだけどなー。」と、呼ばれるたびに悲しくなったりもして…自社開発の会社に入ることを決めました。
そして、どちらかというと新しめの技術をたくさん使えて、バリバリ実装して経験積めるところ。なんなら一人で全部できるようになるぐらいのところがいいな。ということを軸にして別の会社に転職することを決めました。
今考えると次に転職する会社は私には合っていなかったんです。憧れであって、私の性質は真逆だったと、今考えるとわかります。本当にたくさんの経験をさせてもらえて大いに成長はできたのですが。。。
ここから結構キツくて奮闘する日々が始まります。
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